言語を学ぶ時、まず単語の意味を覚えます。
そして、その数が増えていくに従って、意思疎通ができるようになっていく・・・と思っていました。
それは一つの事実ではありますが、ではなぜ、親や元夫と話している時は日本語で話しているのに言葉が通じなかったのだろうとずっと不思議に思っていました。
ようやく、最近気づいたのですが、同じ単語なのに私の思っている単語の意味と、かれらの思っている単語の意味が違ったのではないか?と考えるようになりました。
そうすると、話が噛み合わなかった状況の説明がつくように思えたからです。
私は、子供の頃に自分の気持ちを聞いてもらいたくて、母に「私にも心があるんだよ!」と訴えた事があります。
その時返ってきた言葉が「当たり前でしょ、お父さんも私も心を大切にしている。」というものでした。
それなら、どうして私の気持ち(心)について聞いてくれたり、配慮してくれないのだろうとずっと違和感として残っていました。母が嘘をついているように見えなかったからです。
ようやく、何十年も経って気づいたのは、「あの時、母が言っていた心とは、親の心であって子供である私の心は『心』という単語の意味には含まれていなかったのだ。」と気づきました。
だから、「こんなにしてやっている」という親側の気持ちで子育てをして、「私がどう感じているか?」という視点はなかったから、「こんなにしてやっているのに、感謝しない子供(私)がおかしい」というストーリーなってしまったのだなと。
元夫で考えてみると、よく「普通がこうする」とか「常識的にはこうだ」と言って、だから私がおかしいという論理で私をなじってきましたが、その「普通」や「常識」の中にいるのは自分だけで、私はそこには含まれないという言葉の定義だったのだなと理解できるようになりました。
守られるべき「心」や「常識」の中にいるのは自分たちだけで、私はそこには入れないのですから、私の存在は彼らが自分を入れて運用しているルールの外側にいたのではないか?だから、そうやって私を否定し続けたのではないか?・・そう考えると腑に落ちる事が数多くあったのです。
そして、そう扱われることに違和感を感じた私は、たとえどんな立場の人でも自分の都合で境界線を引いて、そっちとこっちのルールは別だよという扱いをすると相手は傷つくということを忘れないで生きていこうと思いました。
また、自分と相手のルールを都合のいいように変える人たちを、大切な人なのだと考えることは、自分を大切にすることではない(=自分をすり減らすこと)ということに気づきました。