ただ、霧が晴れただけ・・

 毒親モラハラ夫から自由になって

自分を取り戻した今、

一体なぜあれほど苦しかったのかを考えてみました。

 

事実を実物大の事実として認識せず、自分なりの妄想を加えて

膨らませた形を事実だと思い込んでいただけなのではないか?

と思い始めました。

 

母が〇〇するのは、本当は私のことを気遣ってくれているからではないか?それを迷惑に感じるの私が悪いのではないか?

→事実は、「母が〇〇した」のみ。

 

夫が不機嫌なのは、何か私が気に触ることをしたのではないか?

→事実は、「夫が不機嫌」のみ

 

または

夫が不機嫌なのは、今日たまたまで疲れていたのではないか?

→(理由によってなかったことにはできない)事実は、「夫が不機嫌」のみ

等々

 

ただの事実に、わざわざ自分で目眩しになる理由をつけて、

その理由に対して罪悪感を抱いて

自分を疲弊させていたのでした。

 

 

事実を積み上げていけば、夫に対しては

「夫は意味もなく、気まぐれに不機嫌になる」

「人を見下さないと不安そうだ」

「私に対して気遣いするのではなく、自分の虚栄心が優先」

と言う結果が積み上がっていくだけで、

私がビクビク気を遣う必要などなかったのです。

 

綺麗な景色の観光地に行くはずだったのに、

実は今は廃れた場所だったり、

霧が深くて行く道を間違えたりして、

 

着いてみてから、霧が晴れたら(事実だけが見えてきたら)

ゴミ捨て場だったことに気づくこともありますよね。

 

その事実に気づいたら、

「あっ、道を間違えることもあるよねえ〜」と

気づいた時に引き返せばいいだけのこと。

 

その間違いを、

「こんな相手と結婚してしまった・・・(自責)」

「私は失敗してしまった・・・(絶望感)」

「気をつけていたのに・・・(他者との比較で愕然)」

そうやって、間違えたことを自分で膨らませて

ますます、自ら引き返せなくさせていたのです。

自分で自分の首を絞めるとはこのことですね。

 

それをプライドが邪魔するとか、

面子があるとか、

いろいろな言葉で言い換えることはできると思いますが、

それが社会的に大きくなっていくと

負戦直前の日本軍みたいになって

突き進むしかなくなるのかも?

根っこは同じような気がします。

 

 

冷静に、起こった事実を羅列することで

単なる結論の事実が導き出せるような気がします。

 

それから、なぜそうなったのかという

理由(自分なりの予測)を補って考えることを

否定するつもりはありませんが、

本当の理由は、当人に確認しなければ

わからないし、当人が正直に答えるかはわかりません。

 

毒親モラハラ夫も、

私自身が大きく膨らませてあげていたんだ!と言う

「事実」も確認できました。

 

道標がなくて、手探りで霧の中を進まなくてはならないこともあります。

霧の中、苦労して着いた場所が

考えていた目的地でないという事実が

許せなくなってしまっていたんだな〜ということです。

 

でも、霧が晴れて、浮かび上がったゴミ捨て場を確認して、

「道を間違えたから、本当の目的地を目指そう!」って

事実に沿った対処をすればいいだけのことなのです。

 

そこに「私の気持ちがおさまらない・・」

「私が悪いっていうの?・・」等々の

余計な要素を混ぜると解決方法がわからなくなって、

時間ばかりが空虚にすぎるループに

巻き込まれる過去の自分がいました。

 

事実は、以前から変わらない。

ただ霧が晴れた時に、その事実の羅列を

事実通りに認識できるかだけの話なのではないでしょうか?